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鯛めしのお釜

ウェブに関する技術的なメモを書いていきます。

私とは何か、手塚治虫と仙厓の一円相を眺めながら考える

私はよく、エンジニアぽくない、と人から言われる。

それは単に容姿的な理由で言われているわけではない。

また、社交的だからとか、そういう立ち居振る舞いから判断されているわけでもない。

じゃあ何者に見えるのか問うと、よく分からないと言われる。

たまたま職業がエンジニアであるからそれが引き合いに出されるだけで、例えば私がデザイナーや営業マンだったとしても同じような言われ方をするのだろう。

何者かは分からないが少なくとも同クラスタの中では異質である、それが今できる最も具体的な表現の仕方かもしれない。

 

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また、私はよく「ねえさん」「にいさん」と人から言われる。人によって、私は姉であり兄となる。男であり女になる。

私は他人を性別で区別する意識が、周囲と比べてかなり低いように見受けられる。私はこれまで異性としか付き合ったことがないが、それはたまたま好きになった人が異性だっただけで、一緒に暮らしている人の性が違っても別に何も思わない。

そして私自身は、自分が男でも女でもどっちでもいいと思っている。

根がそういうヤツだから、私を傍から見ても男か女かわからない存在になっているのかもしれない。現に見た目は服装も含めてとても中性的だと自分で思うし、それがとても居心地がよい。

 

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私は何者か。これは物心ついた頃から、自分の密かなるテーマの1つとして心でそっとあたためている問いかけである。

私は基本的に前向きでおちゃらけた人間なので、私とは一体何なのだ!?と何かを悲観するようなことはほとんど無い。

「何だろうなあ、あ、じゃかりこ食べよ(鼻ホジー)」、その程度のゆるさで考える。

別に急いで知りたいわけでもない、知るべきときがきたら知るのだろう、実は知っているけど気付いていないだけかもしれない、なら気付くまで待とう、そういう非常にのんびりした構えで私はわたしを見守っている。

ただ、病気などで弱っていた時は心が内向きになり、私には何もない、私は空っぽだと悲痛の叫びをあげていたこともある。それを脱した今は特にそういう考えを抱くことは無くなったし、空っぽだのなんだのとそういうところにむやみに着目するのを辞めた。自分を卑下する視点や考え方そのものもいつの間にか忘れつつある。

 

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私はいつも自分を、大きな時間の流れの1コマのように捉えている。

得体の知れない大きな時間のうねりの中で、私はたまたまわたしになってコロコロと流れてゆく。そういうイメージがいつの頃からか頭のなかにある。

いつもコロコロ転がって流れているイメージそのまま、考えもコロコロよく変わる。自分以外のものもそれぞれ流れているイメージなので、環境や人間関係もどんどんサラサラと流れていく。流れるというのは絶対で当然だから、堰き止めようとは思わない。そうして流れていくものが1つになって、大きなうねりができている。

ちなみに一度その流れを堰き止めようとして大いに痛い目を見たので、もう二度とそんなことはしない。

 

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先日 Eテレ で、100分de名著スペシャル「100分de手塚治虫」を観た。

www.nhk.or.jp

手塚作品はアニメでブラック・ジャックやアトムをチラ見したことがある程度だったが、今回この番組を観たことでゆっくりと興味関心を抱くようになった。

番組では、手塚先生が性、人間、世界をどう捉えていたか、考察をまじえて紹介されていた。例えばリボンの騎士の主人公は男であり女であった、神父と犯罪者の同性愛を描いていた、というような、今の時代の人々から関心を抱かれやすい、私にとっても共感や関心を抱きやすいテーマが取り上げられており、へぇ〜!と唸りっぱなしだった。

また、手塚先生は円を非常に正確にお描きになる方だったとも紹介されていて、これまた、へぇ〜!と唸った。

そして、手塚先生の作品は、ストーリーが非常に練られており、キャラクターはその物語で生きている普通の人達だという考察があり、私は興奮した。

この考察を聞いて強く自覚したのだが、私は物事をストーリーとして眺める傾向にある。それは人であっても本であっても、全てはつながっていて、その大きなつながりの1コマとして人や物があり、それらが集まって大きなつながりになる、という捉え方をする。だから物語がよく練られた作品がとても好きで、逆にキャラクターだけにフォーカスした作品があまり得意ではない。

手塚先生のことだけでなく、自分自身を知るとても重要な時間を過ごすことができた。

 

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上記番組を観た後、私は東京国立博物館で開催中の禅の特別展に行った。

zen.exhn.jp

もともと家族が行きたいと言っていたイベントで、それなら一緒についていこうと軽い気持ちで訪れたのだが、そこで私は「うわ〜」とあたたかい気持ちになる絵に出会うことになる。

その作品は、仙厓義梵の一円相という(画像検索するとたくさん出てきます)。

この人物は、ゆる〜い絵を描く禅僧だ。たしか一時期ネットで「ゆるかわいい!」と話題になったこともあったように思う。私にとってはツボな、めちゃかわいい絵を描かれる方で、例えば猫っぽい絵をかき、その絵の隣に「猫のようなもの」と一言添えるというシュールな人である。漢文などかなり真面目なものが並ぶなか、1人だけ突き抜けていて笑ってしまう。

そんな僧侶の円を観て、すぐさま手塚先生の円を思い出し、そして自分は円に惹かれる人間であることを唐突に自覚したのである。

私は絵を描くことが好きだが、四角い紙のなかで描いた絵はどれも、紙を円に切り取ったほうがスッキリ収まることが多い。丸みをおびた形を描くのが好きで、手描きでわりと綺麗に円を描くことができる。ウェブサイトをデザインしている時は、アイコンや画像は円に切り取りたくなる。丸みをおびたフォルムが好きなのだ。数字はその見た目や概念から「0」と「8」が好きだ。全体を俯瞰して捉えるのが落ち着く。そして全てはつながっていると考えているふしがある。

こじつけな部分もあるかもしれないが、それでも自分で「なるほど円か」と妙に納得してしまった。

 

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ただ残念ながら私は禅のことをまったく知らない。

映画や本をたくさん消費するので、作品の中で禅の考え方に触れたことはあると思う。またエンジニアの世界では、禅=スティーブ・ジョブズがなんかハマっとったらしいやんという話題が有名なので、まあハマっとったんやろなという認識だけはある。それだけだ。瞑想は最近テレビで「マインドフルネス」としてやり方が紹介されていて、ちょっとやってみたらえらい気持ちよかったなという印象。

こうして円に妙に惹かれていることに気付いた今も、じゃあ今からちょっと勉強してみるかというギラギラしたものはあんまり起こっていない。

たぶん、点として「禅」を捉えようとしているから興味が持てていないだけだと思う。時の流れの中でそれを見る視点に気付くことができれば、あとは風の吹くまま吹かれるまま身体に入ってくるような気がする。

ちなみに禅まわりで今のところの興味関心は、先述の仙崖さんのお絵かきである。今回作品を見て、萌え心にちょびっと火がついてしまった。しかも達観してそういう絵をお描きになっているように見えるから、そこもまた惹かれるポイントか。

私とは何か、Eテレと禅の展示会によって、色々と発見の多い時間を過ごすことができてよかった。というわけで以上、ここに今の気持ちや考えを残しておく。

 

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(20161115 追記)

以上の文章は note にも転載しました(表現の仕方をいろいろ検討したくて、note はじめてみました)。

note.mu